抑肝散は、私が漢方に本格的に関心を持つきっかけになった、思い出深い漢方薬です。
もともと抑肝散は、小児の夜泣きや「疳の虫(かんのむし)」に用いられてきた処方でした。
それが今から20年以上前、東北大学の先生方が認知症や高齢者の不眠・徘徊に対して抑肝散が有効であるという研究報告を行い、そこから一気に臨床現場へと広まっていきました。
私も、その流れに影響を受けた一人です。
当時、たまたま応援に行っていた北関東の病院で、
「東北大学で、高齢者の不眠や徘徊に抑肝散を使っているらしい」
と友人から聞きました。副作用リスクも比較的少なく、「これは現場で使えるかもしれない」と直感的に感じ、早速使ってみたいと思いました。
当時、認知症の徘徊や不穏に対しては
ベンゾジアゼピン系睡眠薬を転倒リスクを承知のうえで慎重に使ったり、
プロペリシアジン(ニューレプチル)やチアプリド(グラマリール)を処方するのが一般的でした。
また、その頃の現場での漢方といえば、
誤嚥性肺炎予防の六君子湯、
転倒後の頭部打撲に五苓散、
便秘に大建中湯、
この程度が中心で、精神科領域で漢方を使う発想はほとんどなかったと記憶しています。
私は、週に1日診察に行く老人保健施設で、新規に入所された落ち着かない利用者さんに抑肝散を投与しました。
ちょうど東北大学の論文が出るか出ないかの時期で、医師も現場も認知度はほぼゼロでした。
抑肝散を処方したら
「漢方は飲ませるのが大変」
「効くまで何ヶ月も時間がかかるのでは」
「あてにならない」「あの先生大丈夫?」
と、現場からはかなり辛辣な意見もありました。
1週間後、その新規入所者さんは徘徊もなく落ち着いていました。
しかし現場の負担感を踏まえ、「漢方を飲ませるのは大変」という声が強く、全員いったん抑肝散を中止することにしました。
というのも、施設入所初期は不安や興奮が強く、環境に慣れるにつれて自然と落ち着くことも多いからです。
「施設に慣れたのか、抑肝散が効いたのか」
この判断がつかなくなってしまったのです。ここが落とし穴でした。
結果は、非常に明確でした。
抑肝散を中止して1〜2日後から、全員に夜間の徘徊がはじまったのです。
翌週、施設を訪れると介護士さんから
「夜の徘徊がひどいです。あの漢方、また始めてください」
という声が圧倒的でした。
当時の私は、漢方の「切れ味」をまだ十分に理解しておらず、半信半疑で再投与しました。
しかし、翌週診察に行くと、徘徊していた利用者さんたちは再び落ち着いていました。
夜勤の負担が減り、ユニット全体の雰囲気も明るくなったのを、今でもよく覚えています。
それ以外にも、入浴介助時の拒否や食事の時の立ち上がりが軽減するなど、
次第に現場では「困ったときの抑肝散」と言われるようになりました。
それ以降、漢方を処方しても現場からあれこれ言われることはなくなりました。
さらに意外だったのは、その後の広がり方です。
その地域では介護士さんが施設間を転職して渡り歩く、自虐的に「回遊魚」と言うような文化がありました。
結果として、抑肝散は医師主導ではなく、現場の介護士さんたちの口コミで一気に広まっていったのです。
抑肝散がここまで普及した背景には、
論文やエビデンスだけでなく、
「現場が実感した確かな効果」が底力だったのだと思います。